余白をつくる。それは感性と創造性の居場所をつくること。
「今の生活に、余白はありますか?」
こう聞かれたら、なんと答えますか。
「いやー、余白だらけで困ってます!」という人は、なかなかいないのではないでしょうか。
余白というのは、時間の余白、TODOの余白、仕事のキャパとしての余白、気持ちの余白。そんなところです。
余白がない生活。
僕にはそれが、鉛筆で殴り書きされた一枚の画用紙に思えます。
描きたいと思うものがあっても、描くスペースなんてもう無い。
ぐちゃぐちゃで真っ黒な画用紙を見てると、何も描きたいという気分じゃなくなる。
それだけじゃなく、なぜかイライラしてくる。
そして僕らは、めくれば次のページがあることすら忘れる。
ー そんなことを、想像してしまいます。
「余白がない」を自覚することから
余白がないと、
突然のチャンスに気づけない。気づいたとしても手を伸ばせない。
好きだったことすら忘れてしまう。できなくなってしまう。
他人に優しくなれない。
「余白をもとうよ」という声に反応できなくなる
…
特に、最後の一つは、こわい。
余白がないということにすら気づけない状態なのですから。
もし今、大切なパートナーや友人が「大丈夫?少し休んだほうがいいよ」と声をかけてくれてるとします。それに対して、「いやいや、、そうかもしれないけどさ、、今頑張りどきなんだよ!行かなきゃ。」となっていませんか。
もしなってるとしたら、疑いましょう。
すでに余白がないんじゃないか、と。
コップの水はもう表面張力でなんとかもっているだけです。きっと。
自分は余白がないんだ、ということをまずは自覚しましょう。
僕自身も、そんな時がありました。
でも、気づいたら、なんとかなります。
強制的にでも余白をつくることは、ちょっと怖いけど、意外と大したことないんです。
余白をつくる。それは感性と創造性の居場所をつくること。
余白のある生活を取り戻すと、「あぁ今までは何だったんだろう」と思ったり、どこかに置き忘れていた創造性がムクムクと膨らむような気分になります。
突然のチャンスに気づける。気づいたときに手を伸ばせる。
好きなことを「好き」と自覚できる。健全に自分のペースで取り組める。
他人に優しくいれる。
画用紙に余白があると、
描きたいと思ったときにすぐ描ける。
何か描きたいという気分になる。
気分が晴れやかになる。
そして、まためくれば次のページがあることにも気づけるのです。
余白をもつということは、自分の感性と創造性をフルに活用できる仕組み。
そんな風に思います。
修理してでも使い続けたいもの。
「修理してでも使い続けたいものは、なんですか?」
こう聞かれて、すぐに浮かんだものはあるだろうか。
今日、あるライフスタイルショップを運営されている方に久しぶりにお会いした。
そのときの話題の一つが、まさにそんな話。
アート作品が日用品になる瞬間
家にいわゆる”アート作品”がある場合、日常的にそれに手を触れることはほとんどないだろう。
しかし、全く同じそのアート作品が、日用品になることもある。
それは、毎日のように使用された場合だ。
たとえば、美術館に展示されるような価値のある一輪挿し。
これを自宅の見えないところに保管していたり、ガラスケースに入れて見えるようにしているだけの場合。その一輪挿しは息をせず、アート作品としてそこに佇んでいる。
そこに花を一輪挿し、トポトポと水を差す。
そんな日常の中にあるとき、一輪挿しは息を吹き返し、日用品となるのだ。
本当に大切なものは、修理してでも使い続けたいもの
しかし、どれだけ美しい!と思うようなものでも、アート作品を手に入れるのはあまり簡単ではない。けど美しいものを手にしたい。大量生産品は最低限に留めたい。
僕は常々、そう思ってきた。
そうか、自分が美しいと思うものを長く使い続ければいいんだ。
そんな当たり前の結論に行き着く。
日用品は、どうしても扱いが雑になりがちだ。
けど、長く使いたいものならガシャン!と音を立てて扱わないし、万が一壊れたときにも、「捨てよう」とはならない。
本当に大切なものというのは、壊れても、修理して使い続けたいものなのだ。
本当に大切にしているものの価値は、自分の中にある
たとえば、僕にとってのこちらの器。
有田の陶芸家・河口武亮さんの作品。
塗った時の息遣いをすぐそこに感じる刷毛目。
手に取った時になじむ柔らかさ。
器の裏に残る生々しい手仕事感。
肉じゃがが映えそうなフォルムと色目(親しみを込めて肉じゃがの器とさえ呼ぶ)。
これは、たとえ割れてしまっても「捨てよう」とはならない。
金継ぎや銀継ぎをして、愛し続ける、とわかる。
さらに、割れてしまったも自分の中での価値は落ちない。
本当に大切にしているものの価値は、世間一般で見た時の相対的なものではなく、自分の中だけにある、絶対的なものなのだ。
この器は、大量生産品でもなければ、世間の価値から見るとアート作品でもない。
大量生産品のように毎日でもガシガシ使う。
けど、手に取るときや洗うときは、アート作品に触れるように大切に扱う。
そして、壊れてしまったら修理してでも使い続ける。
そんなものに囲まれている生活が、一つの幸せだと、思う。
「あなたに取って、修理してでも使い続けたいものは、なんですか?」
「広大な宇宙に比べたらヒトはちっぽけな存在?」へのちっぽけな回答
「宇宙は無限に大きくて、それに比べたらヒトはちっぽけな存在だよ」
とは、よく聞く話だ。
これは、本当でもあり、ウソでもある。
果てしなく大きな宇宙から見ると、ヒトは確かに小さな存在だろう。
では、自分の体内の細胞から見たらどうか?
細胞から見たら、僕もあなたも無限大に大きいはず。
僕たちが宇宙を構成する要素の一つであるのと同じで、細胞もまた僕たちを構成する要素なのだから。
つまり、存在の大きさは相対的なもの。
だから、どの目線で見るかによって違うのは当たり前。
今日電車で隣に立っていた人からみれば、僕の存在にあまり意味はない。
ただ、妻から見れば、僕の存在は宇宙よりも大切なはず(と願う)。
「ヒト」というくくりで見たときも、存在の大きさは相対的なのだ。
僕たちは、生きていると、自分の存在が大きく感じることもあれば、ちっぽけに思うこともある。
これ自体に、答えは出ないし、あまり考えても意味がない。
宇宙も細胞も、「自分はちっぽけか?」ときっと考えてないのと同じで。
一日一日積み重ねている人生が、僕たち一人ひとりの歴史だ。
成功も、失敗も、喜びも悲しみも不安も怒りも、同じように刻まれている。
ちっぽけかどうか考えても、自分のサイズは変わらない。
自分のサイズをほんの少し大きくしてくれるのは、自分が今日何をしたか。
それしかない。
「自分はちっぽけな存在か?」を問うのは、まだまだまだまだ先でもいい。
人生最後の日でも遅くないし、なんならいっそ問いかけなくてもいい。
それよりも、今日の創作、今日の練習、今日のコーヒーブレーク、今日の愛する人との時間を積み上げよう。
愛用品には、愛用したくなるカバーを。
僕には、愛用しているノートが二つある。
そのうちの一つが、ミドリの「MDノート A5 無罫」。
潔い無地のデザイン。
気取らない、かがり製本の網目。
目に優しい絶妙な薄いクリーム色。
そこに映える、イエローのしおり紐。
大きく開いたときの使いやすいフラット加減もニクい。
描き心地は、気持ちザラザラしていて、”書いている”という感覚がある。
モレスキンのようなハードカバーだと開くときにどうしてもちょっとストレスを感じる(のと、使用している人が多くメジャー感があるので敬遠しているのが本音) 自分にとって、ぴったりのノートに出会った気分だった。
たぶん2010年ぐらい?から使っているので、もう10年近くの付き合いになる。
あえて無罫にしているのは、思考の広がりや流れに制限をかけないため。
悩んだときや迷ったときに、書き殴るように使っている。
ノートを90度回転させるがのが自分流だ。
しかし、だ。
ザラザラとした無垢な表紙の汚れがどうしても気になる。
それも味といえば味なのだが、気になるものは気になるのだ。
そこで、PVC(ビニール)のカバーを買うも、見た目がツルツルして気に入らないわ、割れてしまうわ、で。さて、困った。
ということで、スウェード調の革でカバーを制作。
いい…!
(しおり紐のイエローとペンのブラック&ゴールドとのバランスも最高じゃないか…)
カードや、本を読むときに愛用している付箋も持ち運べるように。
長く愛用しているノートでも、ビニールのカバーをかけるだけで、どこか遠い存在になってしまう寂しさがある。
そこで、この愛用したくなるカバーをかけてみる。
手にしっとりとなじむ。
それだけで、ちょっと人生が豊かになった気分になるのだから、不思議というか単純というか。
道具が”市販品”から”パートナー”になる瞬間。
作品づくりに使う道具のカバーを作ってみました。
今回は、写真左からヘリ落とし、菱錐(ひしぎり)、長尺(定規)のカバーを。
ヘリ落としは、革の端(断面)を磨く前に角(ヘリ)を落とすため。
菱錐は、革を縫う前に穴を空けるための道具です。
僕は、道具がとても好きで。
それぞれが持つ、独特の役割。
丸みを持ったあたたかみのあるフォルム。
使い込まれた表情。
いつまでも作品づくりを共にするパートナーなので、大切にしたい。
と思い、カバーを作ったのですが、いいですね。
ぐっと”自分のパートナー”になって心がつながった感覚がします。
買った時に付いていたカバーだと、こんな感じ。
味気ない 笑。
これでは、まだ市販品の状態。
僕の手元にあるようで、まだ来ていない。
カバーを付ける。
うん、これでやっと、自分の道具に。
美しい道具、大切にしたい道具には、大切に作ったカバーを。
さて、これからも共に歩いてゆこうじゃないか。
価格はいくらでもいい。作り手が決めた価値を尊重すること。
絵描きの326(ミツル)さんのつぶやき。
そうだよなーと頷くことがありました。
「好きなことをしているのにお金を取る」と考えている人は、こんな風に考えているのかもしれないですね。
・好きなこと=お金を払ってでもしたいこと
・嫌いなこと=お金をもらってすること
ここで、「完成度」という視点で見てみます。
好きなことと、嫌いなこと。
どっちをしたときの方が、完成度が高くなるでしょうか。
きっと、嫌々やる「嫌いなこと」より、ワクワクしながら手と頭を動かす「好きなこと」の方が完成度が高いはずです。
・好きなこと=完成度高い=価値がより高い→なのに、お金を払えない?
・嫌いなこと=完成度低い=価値がより低い→なのに、お金を払う?
不思議ですが、こんな矛盾が平気で起きているのです。
もう一つ大切な視点。
好きなことをするにも、お金がかかります。
326さんの先ほどのつぶやきに、こんなコメントが。
僕の結論は、「作り手⇄書い手の認識が一致していれば、いくらでもいい」ということ。
この認識が相互で大きくズレているとボッタクリになり得るし、月とスッポンのような甚大なズレになると詐欺になる。
作り手は、この認識のズレを小さくするように、”伝える”努力することが大切だと考えています。
100人以上が開店前に並んででも買う、有名ブランドの1万円の化粧品(材料原価1,000円)は、ボッタクリでしょうか?
世の中に認知されていてブランド価値が高い、もしくは自分がとても気に入っているなら、ボッタクリだと感じないはず(そもそも並ばない…)。
では、とあるハンドメイド作家の1万円のカードケース(材料原価1,000円)はボッタクリでしょうか?
作り手の「想い」や「コンセプト」に共感すれば、それ自体が価値になり、喜んで手に取る。
感じなければ、買わない。それだけです。
大きな企業や大きなブランドと同じく、ハンドメイド作家も、材料費だけで価格を決めているのではない。そこには、買い手からは正確には見えない、作り手がかけた「時間」と、作り手が考える「価値」が含まれている。
それらを勝手に推測して決めつけることは、無粋。
敬意がないのと同じです。
作り手が決めた価値に共感・納得すれば、買う。
しなければ、買わない。
それだけじゃないかな。
人が大切にしていること。僕が大切にしていること。
手縫いは時間がかかる。
ということは頭ではわかっていても、どうも手縫いを好きな気持ちが止められない。
革の制作について本も出している方に、聞いてみたことがある。
「ほとんどの方が、ミシン縫いなんですかね」
と聞くと、
「手縫いはすごく時間がかかるので、ほとんどがミシンですね。手縫いしている方も、見えないところはミシンでということが多いです」
その横にいた、その筋の業界らしき生徒さんも同意した。
「正直、買う方も、手縫いかミシンかというのは気にしていないですね」
確かに、と思いつつも、どこか引っかかる。
たぶん、普通に考えれば、「そうか、確かにそれならミシンでいこう」となるところだが、どうしても、うーん、としっくりこない。
しっくりこない。
しっくり…
そうか、僕は手縫いが好きなんだ。つまり、しっくりくる。
それだけで良いじゃないか。
「手縫いは時間がかかる」という言葉の奥にあるのは、「ミシンと比べて効率が悪い」「手縫いでは割に合わない」ということだろう。
僕は、効率で仕事をしているわけではない。
愛を持って向き合える手段と使い、愛のある作品を創作する。
そんな作品が届くことにこそ、意味を感じる。
もはや、創作意欲が湧き続けることが最高の効率ではないか?とすら思う。
僕にとって、手縫いは効率がいい。ということだ。
愛を持って向き合えない手段から、愛のある作品は生まれない。
そこには、共感も何もない。
効率を大切にする人もいる。
利益率を大切にする人もいる。
規模の拡大を大切にする人もいる。
量産を大切にする人もいれば、とにかく一つ一つの質を大切にする人もいる。
人が大切にしていることは、様々であり、不可侵な領域だ。
人が大切にしていることと、僕が大切にすることは違う。
僕は、愛を持って接したいと思える手段を大切にする。
それが、今のところ、手縫いだった。
というだけのこと。
そんなことを考えながら、僕は今日もステッチに向き合いたいと思う。