修理してでも使い続けたいもの。
「修理してでも使い続けたいものは、なんですか?」
こう聞かれて、すぐに浮かんだものはあるだろうか。
今日、あるライフスタイルショップを運営されている方に久しぶりにお会いした。
そのときの話題の一つが、まさにそんな話。
アート作品が日用品になる瞬間
家にいわゆる”アート作品”がある場合、日常的にそれに手を触れることはほとんどないだろう。
しかし、全く同じそのアート作品が、日用品になることもある。
それは、毎日のように使用された場合だ。
たとえば、美術館に展示されるような価値のある一輪挿し。
これを自宅の見えないところに保管していたり、ガラスケースに入れて見えるようにしているだけの場合。その一輪挿しは息をせず、アート作品としてそこに佇んでいる。
そこに花を一輪挿し、トポトポと水を差す。
そんな日常の中にあるとき、一輪挿しは息を吹き返し、日用品となるのだ。
本当に大切なものは、修理してでも使い続けたいもの
しかし、どれだけ美しい!と思うようなものでも、アート作品を手に入れるのはあまり簡単ではない。けど美しいものを手にしたい。大量生産品は最低限に留めたい。
僕は常々、そう思ってきた。
そうか、自分が美しいと思うものを長く使い続ければいいんだ。
そんな当たり前の結論に行き着く。
日用品は、どうしても扱いが雑になりがちだ。
けど、長く使いたいものならガシャン!と音を立てて扱わないし、万が一壊れたときにも、「捨てよう」とはならない。
本当に大切なものというのは、壊れても、修理して使い続けたいものなのだ。
本当に大切にしているものの価値は、自分の中にある
たとえば、僕にとってのこちらの器。
有田の陶芸家・河口武亮さんの作品。
塗った時の息遣いをすぐそこに感じる刷毛目。
手に取った時になじむ柔らかさ。
器の裏に残る生々しい手仕事感。
肉じゃがが映えそうなフォルムと色目(親しみを込めて肉じゃがの器とさえ呼ぶ)。
これは、たとえ割れてしまっても「捨てよう」とはならない。
金継ぎや銀継ぎをして、愛し続ける、とわかる。
さらに、割れてしまったも自分の中での価値は落ちない。
本当に大切にしているものの価値は、世間一般で見た時の相対的なものではなく、自分の中だけにある、絶対的なものなのだ。
この器は、大量生産品でもなければ、世間の価値から見るとアート作品でもない。
大量生産品のように毎日でもガシガシ使う。
けど、手に取るときや洗うときは、アート作品に触れるように大切に扱う。
そして、壊れてしまったら修理してでも使い続ける。
そんなものに囲まれている生活が、一つの幸せだと、思う。
「あなたに取って、修理してでも使い続けたいものは、なんですか?」