未完成の練習帖

100万人の心ない拍手を聴くのではなく、100人との熱烈な抱擁と握手を感じていたい。

なるべく、正直で誠実な人でありたいと思って生きてきたつもりだ。

それだけに、一見人の幸せを願っているようで実はそうではないものを見ると、怒りのような哀しみのような虚しさのような、もしくはそれらをごった煮したようなものが胸に引っかかる。

食べ物で言えば、「糖質オフ」「砂糖不使用」と書いているものなどが、それに当たる。「糖質オフだから、身体にいいよ!太らないよ!」と言いたいのかもしれないが、もしそこに人工甘味料が入っているなら、欺瞞でしかない。人工甘味料は砂糖よりもコストが低いからいって導入し、それをあたかも健康的だと宣伝文句を練り上げる。

「コストが低い」は企業の利益率アップに貢献する。「健康や肥満にまつわる宣伝文句」は多くの人に刺さり売上が増える。これは、どちらも、”企業にとっての”メリットである。もちろん、これで本当に健康になりシェイプアップに繋がるなら、”個人の”メリットにもなるのでそれでいい。ただし人工甘味料を使っているのなら話は別で、さらに毒性のある人工甘味料なら、もはやもう、話のすり替えでしかない。

そんなことが、世の中には蔓延している。

巨大になりすぎたのだと思う。企業の規模が。巨大になると、たくさん売らないと成り立たなくなる。多店舗展開になると、たくさん売れる商品を作らないといけない。

正直で誠実で優しくあるための、規模の限界値がある。

もちろん、大規模かつサステナブルな優しい経営をする企業もあるけれど、それでも小さな歪みはきっとある。想像になってしまうのだけれど。

個人の事業も、それは同じだと思う。

100万人の人に支持されるための事業は、どこかに歪みがくるし、何より対応しきれない。どこかで誰かに嘘をつかなければ、成り立たないような歪みが出てくるのじゃないか。それよりも、100人に支持されればいいと決め込んで、まっすぐに進んでいく。結果的に、10人の支持にとどまるかもしれないし、100万人の喝采を受けるかもしれない。

人の不幸につながるような話のすり替えではなく、人の幸せにつながるストーリーを紡ぎたい。

100万人の心ない拍手を聴くのではなく、100人との熱烈な抱擁と握手を感じていたい。

あなたは、どうだろうか。

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誰だって、認められると嬉しい。それが「本当の自分を生きてる」自分ならなおさら。

つくったブックカバーをもって、得意げに妻に見せる。

「これ、いいね!色がきれいだね!」

小学校の頃から、”家の外では”私は感情的にフラットで落ち着いたほうだった。家では生来の頑固さや感情の噴火で困らせたこともあったようだが。

そんな私も、自分自身や創作したものが「いいね!」と言われると、胸が開いていくような嬉しい感覚に浸り、少し饒舌になる。

しかし、とふと思う。

これが、「本当の自分を生きていない」という感覚のときだったらどうだろう。

格別の思い入れなく入った第二希望の会社で転職しようかともう3年も思っているところに、自分の仕事を褒められたら?

友人から誘われたままに行っているボクシングジムで、しっくり来ていないながらも、一緒だと楽しね!と自分の存在を認められたら?

落とし所のない嬉しさは沸き起こってくるかもしれない。しかしきっと、同じようには思えないだろう。

ブックカバーは私が心から取り組みたい、私にとっては崇高とも言える意義を持つ創作でありライフワーク。直感の中にある輝く芯のようなものをグッと掴み取り、それを形にするように縫い合わせていく。

だからこそ、なのだ。自然と目尻が下がり、饒舌になるほど嬉しいのは。

昨日、同僚から、上司から、部下から、妻や夫から、友人から、認められたとき、褒められたとき。その瞬間、自分はどんな表情をしていただろうか?心踊る高揚感に包まれていただろうか?

その答えを、大切にしていこう。f:id:ryusukem:20190601230149p:plain

個の時代だなんていうけれど、もう何年も前からそう言われてきた。

これからは個人の時代だ、と言われているのを聞く。

それを聞く度に「ずっと個人の時代なんだよ」と思う。ひとは集団生活はするし、私たちの成人は20歳だけど、どの時代も最小単位は個人なのだと言いたい。

それとはまた別に知っておきたいのが、どの時代も「個人の時代が来る」と言っていることだ。少し遡ろう。

7〜8年前、同じく「個の時代」「新しい時代」と盛り上がったときがある。東京には洒落たコワーキングスペースやシェアオフィスが次々に立ち上がり、それとともに個人のビジネスも数々立ち上がった。

ノートパソコンの軽量化やiPhoneの大普及なども手伝い、国や場所を選ばず仕事をする人も増えた。フリーアドレス制のオフィスを企業が取り入れ始めたのもこの頃だろうか。多くの人が、「個人が活躍しやすい時代になった」と感じていた。いまと同じように。

心理学者・国分泰孝氏の著書『カウンセリングの技法』で、こんな表現に行き当たった。

ではカウンセリングを必要としている社会とはどんな社会か。ひとことでいえば、個人主義志向の社会である。

これは1979年の本なので、実に40年前のこと。国分氏は個人主義志向になりつつある背景として、人口移動の活発化、高学歴化、権利意識の高揚、家族主義の崩壊を挙げている。私はつい最近これを読んだ時、いまと似てるな、と思った。

いつの時代も個としての活躍を求めているし、いつの時代も実際に個人の時代なのだ。

ただし、いま話されている”個の時代”は、先ほど挙げた二つの現象とは少し性格が異なる。40年前の”個の時代”はタテ社会からの脱却という意味合いが強く、7〜8年前の”個の時代”は時間や場所に縛られないワークスタイルとしての意味合いが強かったように思う。

では、今回の”個の時代”とは何か。

幸せのカタチも多様化する中では、人それぞれの幸せがあり、その幸せを追求する。つまり、個人の幸せを追求する時代なのではないか。

誰もが、人に押し付けられた幸せのカタチを目指す必要はない。親には親の幸せのカタチ。今日ランチする旧知の友人や、SNSで見る有名人にもそれぞれの幸せのカタチ。それらにフィットする必要はないし、そもそもカタチが違うのだから焦る必要なんてもちろんない。自分の幸せのカタチを見つけていけばいいだけなのだから。

それなら、今回の”個の時代”を応援する立場でありたいと思う。

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宅配便は一緒に運ぶ派。

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御多分に漏れず、Amazonをよく使う。

1週間に1回は何かしらを注文してるし、旅行前なんかは、不足していたセキュリティグッズやら持って行きたい本など、お急ぎ便で大量の物資を注文する。

うちは、ミネラルウォーター派だ。少し前までは、毎日のようにコンビニで2Lのペットボトルを2〜3本買っていたが、ちょっと疲れて来た頃にAmazonを思い出した。今は、段ボールで3箱分がまとめて届く。便利な世の中だ。また今日も届く。

私の家は3階にあるがエレベーターがない。心と時間に余裕のある日は、1階まで荷物を取りに行き、宅配便のお兄さんと「すみません、ありがとうございます」「いえいえ、重いっすからねー」とかまあ当たり前の話をしながら3階にたどり着く。すると、受け取りのサインをする頃には、なんだか富士山を一緒に登頂したような、大学最後の駅伝を走りきったような不思議な一体感に。

私は、極めてフラットな人間だと思う。レストランやコンビニの店員さんも宅配員の方も同じ人間なわけで。たまたまこの瞬間は、私が受け取る側、この人が運ぶ側だった、にすぎない。客側だからと言って横柄な態度をとる人もいるようだけど、その人たちは逆の立場になったらどうか?を考えていないということ。

自分が荷物を届ける立場、レジの立場、料理を提供する立場であるとき、お客さんとフラットな関係の方が気持ちいい。ちょっとした会話も生まれる。

そんな優しい世界の方が、きっといい。

みんな、休んだっていいじゃない。

少し前まで、仕事を休むことにためらいがあった。

たとえば、風邪をひいて安静にするとき。たとえば、有給をとって旅行に行くとき。

前者の場合は、他の人に迷惑をかけてしまうんじゃないかと考えあぐねて、午前休で病院にいって少し良くなったから出社なんてこともある。本当は、完治には時間がかかることを頭のどこかでわかっているはずなのに。

後者の場合は、どこから来たのかわからない後ろめたい気持ちがそっとそこにいるからか、土日含めて三連休、緊張しながら四連休といったところ。

これまでに、1週間ほど休んだ日がいくつかあったことを思い出す。

一つは、インフルエンザ。運営している全6回の講座の初回。私の役割は運営全般と司会、カメラ、と多岐に渡る。”普通に”考えると明らかに穴を開けられない。会場に着いた時に異変を感じ病院に行くと、インフルエンザだ、と。フラフラしながらもメールを一本入れる。講座後のフォローももちろんできず仕舞い。結論から言うと、何も問題なかった。もちろん他のメンバーが苦労してなんとかカバーしてくれたので問題なしではないのだが、それでもなんとかなる。

もう一つは、旅行。海外への旅行で1週間ほど休暇をとった。「え、いいじゃないですか!ゆっくりしてきてくださいね〜」なんてまっすぐな声を信じることができないぐらいには思い煩っていた。後ろめたい想いが溢れそうでズッシリと感じるが、振り切って旅行に向かった。そんな大荷物を抱えているのに、飛行機は飛ぶ。今回も、何も問題なかった。確かに仕事が積み上がってはいたが、まあなんとかなる。死ぬことはない。

休みなんて、そんなもんだ。考えあぐねるものじゃない。休みたい時は、ためらわず休んだ方がいい。休んでも休まなくても、私たちが思っているほど何も変わらない。今はそう考えている。

こう考えてみたらどうだろうか。いつも頑張っている同僚が一週間休んだ時に、自分はどう思うか?よっぽどの人じゃない限り、「あいつ…」とはならないはず。

私自身、心身の休みを経たときに見えたものもある。休まないとわからないことが、この世界にはあるのだ。

自分は休む。同僚も休む。先輩や後輩も休む。社長も休む。

それで、何にも問題ない。ガリレオもきっと言うだろう。「それでも地球は回っている」

休んでいいじゃない。

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せっかく一歩進むなら、自分の価値観に沿った千里を歩きたい。

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千里の道も一歩から。

ことわざに過ぎないと言えばそうなのだけど。”千里”の意味合いがなかなかに曲者だから、付き合い方を考えなきゃいけないと思うことがあります。

人はもともと、自分の価値観の尺度を持っているはず。けど生まれ落ちた次の瞬間から、それとは違う多種多様の尺度に触れることになりますよね。親、親戚、友達とその親、幼稚園や学校の先生、部活の顧問、恋人、仕事先で出逢った同僚、先輩、後輩といった人たち。世間も社会もそうだし、趣味の書籍、映画やテレビなどのエンターテインメントもそう。

人は、何かしらの影響を受ける。30歳を過ぎて”真っ白な紙”のような状態の人はいないのではないでしょうか。何ならもう真っ黒で書くところが無いよ、と言う人がいるかもしれない。

自分の中で考えていた正解と、他人や世間の正解のボーダーラインが曖昧になり、複雑に重なり合い、いずれ、自分の正解が何かわからなくなる。

東に千里行く?それとも西?
歩いて行くか、自転車で行くか、新幹線で行くか?
あれ、本当に千里も歩きたいんだっけ?
そもそも、千里歩いた先にあるものって、何だっけ?

親の一声や世間の常識のまま東に500里歩いたところで「あれなんだかおかしいぞ」と気づく。そうだ、本当は西に500里行きたかったんだ。この場合、500里のために、1500里歩いたことになります。実に、3倍。

人の価値観の尺度に振り回されると、結局のところ遠回りすることになるし、いろんな人の価値観に憑依してしまっているような状態だからこそ思い煩うことが増える。遠回りしたことを誰かに嘆いたとしても、誰も責任をとってくれません。

けど、ここまで遠回りしてしまったのなら、それでもいいじゃない、と思う。それも人生の1章なんだから。道程で見た焼けるような朝陽、大地に打ち付ける夕立ち、息を飲むような景色。きっと遠回りでしか見えなかった景色も、ありますよ。

折り返して次の千里を歩き始めるときに、一つ胸に刻んでおきたいこと。他人や世間の価値観の尺度を基準としている限り、どれだけ進んでも満たされているという実感を持てないということです。

自分の尺度で見て西なら、西に行こう。
たまには電車に乗って、たまには歩いて季節を感じながら進んでもいい。
500里でも、千里でもいい。

自分で決めた距離を進んだ先の景色に感動したとしても、絶望したとしても、言葉にできない感情だったとしても、それはきっと受け止められる。自分の価値観の尺度で測ったものなら。きっと。

追伸
ちなみに一里は約3.9kmなので、千里は約3,900km。沖縄〜北海道間が約3,500kmのようです。千里歩くならなるべく間違った方に歩きたくないですね 笑

私的珈琲論なるもの。

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f:id:ryusukem:20190601230149p:plainもっぱら、コーヒー派だ。

煎茶のさっぱり感も、ほうじ茶の安心感も、紅茶の優雅さも、一応わかるつもりではいる。

マグカップの冷めたコーヒーに口をつけながら、自分がコーヒーに求めてるものって、なんだろう、と思う。いや、そんなこと考えること自体が野暮か。いや、でも気になる。

まずは、朝の演出について。

私は、理想の朝の過ごし方がある。湖畔にポツリと建つ家。窓を開けると、まだ薄く霧がかかり夏なのにひんやりとした風が顔を撫でていく。さて、と。そこでトポトポとコーヒーを淹れてその香りにまどろみ包まれるのだ。いまの家が湖畔ではないが、妄想の中では限りなく湖畔。コーヒーは、私の理想の朝を、演出してくれる。

も一つ挙げるなら、時間の流れについて。

3ヶ月ほど前に、コーヒーを注ぎ入れるサーバーが割れてしまった。そこから、妻がはじめの誕生日にプレゼントしてくれたケメックスのサーバーの上にドリッパーを搭載するというヘンテコな淹れ方をしている。それでもなお、コーヒーをドリップしてる時間は愛おしい。普段はパソコンとスマホと本を取っ替え引っ替えしながら過ごしているからか、その余白の時間が過ぎるのが惜しいほどに素敵に思えるのだ。スマホを見ながらドリップすることもできなくはないが、敢えてそうしないことに意味がある。コーヒーは、余白の時間を与えてくれる存在だ。

いつもより少し余裕があるときには、豆から挽いてみる。そんなときには、「コーヒー」ではなく「珈琲」なんて書きたくなるから不思議だ。

さて。この週末は、「珈琲」で余白のある朝を過ごせるだろうか。なんて考えている。湖畔なら、なお良いのだが。それはまたいつか。