未完成の練習帖

個の時代だなんていうけれど、もう何年も前からそう言われてきた。

これからは個人の時代だ、と言われているのを聞く。

それを聞く度に「ずっと個人の時代なんだよ」と思う。ひとは集団生活はするし、私たちの成人は20歳だけど、どの時代も最小単位は個人なのだと言いたい。

それとはまた別に知っておきたいのが、どの時代も「個人の時代が来る」と言っていることだ。少し遡ろう。

7〜8年前、同じく「個の時代」「新しい時代」と盛り上がったときがある。東京には洒落たコワーキングスペースやシェアオフィスが次々に立ち上がり、それとともに個人のビジネスも数々立ち上がった。

ノートパソコンの軽量化やiPhoneの大普及なども手伝い、国や場所を選ばず仕事をする人も増えた。フリーアドレス制のオフィスを企業が取り入れ始めたのもこの頃だろうか。多くの人が、「個人が活躍しやすい時代になった」と感じていた。いまと同じように。

心理学者・国分泰孝氏の著書『カウンセリングの技法』で、こんな表現に行き当たった。

ではカウンセリングを必要としている社会とはどんな社会か。ひとことでいえば、個人主義志向の社会である。

これは1979年の本なので、実に40年前のこと。国分氏は個人主義志向になりつつある背景として、人口移動の活発化、高学歴化、権利意識の高揚、家族主義の崩壊を挙げている。私はつい最近これを読んだ時、いまと似てるな、と思った。

いつの時代も個としての活躍を求めているし、いつの時代も実際に個人の時代なのだ。

ただし、いま話されている”個の時代”は、先ほど挙げた二つの現象とは少し性格が異なる。40年前の”個の時代”はタテ社会からの脱却という意味合いが強く、7〜8年前の”個の時代”は時間や場所に縛られないワークスタイルとしての意味合いが強かったように思う。

では、今回の”個の時代”とは何か。

幸せのカタチも多様化する中では、人それぞれの幸せがあり、その幸せを追求する。つまり、個人の幸せを追求する時代なのではないか。

誰もが、人に押し付けられた幸せのカタチを目指す必要はない。親には親の幸せのカタチ。今日ランチする旧知の友人や、SNSで見る有名人にもそれぞれの幸せのカタチ。それらにフィットする必要はないし、そもそもカタチが違うのだから焦る必要なんてもちろんない。自分の幸せのカタチを見つけていけばいいだけなのだから。

それなら、今回の”個の時代”を応援する立場でありたいと思う。

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