未完成の練習帖

せっかく一歩進むなら、自分の価値観に沿った千里を歩きたい。

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千里の道も一歩から。

ことわざに過ぎないと言えばそうなのだけど。”千里”の意味合いがなかなかに曲者だから、付き合い方を考えなきゃいけないと思うことがあります。

人はもともと、自分の価値観の尺度を持っているはず。けど生まれ落ちた次の瞬間から、それとは違う多種多様の尺度に触れることになりますよね。親、親戚、友達とその親、幼稚園や学校の先生、部活の顧問、恋人、仕事先で出逢った同僚、先輩、後輩といった人たち。世間も社会もそうだし、趣味の書籍、映画やテレビなどのエンターテインメントもそう。

人は、何かしらの影響を受ける。30歳を過ぎて”真っ白な紙”のような状態の人はいないのではないでしょうか。何ならもう真っ黒で書くところが無いよ、と言う人がいるかもしれない。

自分の中で考えていた正解と、他人や世間の正解のボーダーラインが曖昧になり、複雑に重なり合い、いずれ、自分の正解が何かわからなくなる。

東に千里行く?それとも西?
歩いて行くか、自転車で行くか、新幹線で行くか?
あれ、本当に千里も歩きたいんだっけ?
そもそも、千里歩いた先にあるものって、何だっけ?

親の一声や世間の常識のまま東に500里歩いたところで「あれなんだかおかしいぞ」と気づく。そうだ、本当は西に500里行きたかったんだ。この場合、500里のために、1500里歩いたことになります。実に、3倍。

人の価値観の尺度に振り回されると、結局のところ遠回りすることになるし、いろんな人の価値観に憑依してしまっているような状態だからこそ思い煩うことが増える。遠回りしたことを誰かに嘆いたとしても、誰も責任をとってくれません。

けど、ここまで遠回りしてしまったのなら、それでもいいじゃない、と思う。それも人生の1章なんだから。道程で見た焼けるような朝陽、大地に打ち付ける夕立ち、息を飲むような景色。きっと遠回りでしか見えなかった景色も、ありますよ。

折り返して次の千里を歩き始めるときに、一つ胸に刻んでおきたいこと。他人や世間の価値観の尺度を基準としている限り、どれだけ進んでも満たされているという実感を持てないということです。

自分の尺度で見て西なら、西に行こう。
たまには電車に乗って、たまには歩いて季節を感じながら進んでもいい。
500里でも、千里でもいい。

自分で決めた距離を進んだ先の景色に感動したとしても、絶望したとしても、言葉にできない感情だったとしても、それはきっと受け止められる。自分の価値観の尺度で測ったものなら。きっと。

追伸
ちなみに一里は約3.9kmなので、千里は約3,900km。沖縄〜北海道間が約3,500kmのようです。千里歩くならなるべく間違った方に歩きたくないですね 笑