未完成の練習帖

私的珈琲論なるもの。

f:id:ryusukem:20190601230149p:plain
f:id:ryusukem:20190601230149p:plainもっぱら、コーヒー派だ。

煎茶のさっぱり感も、ほうじ茶の安心感も、紅茶の優雅さも、一応わかるつもりではいる。

マグカップの冷めたコーヒーに口をつけながら、自分がコーヒーに求めてるものって、なんだろう、と思う。いや、そんなこと考えること自体が野暮か。いや、でも気になる。

まずは、朝の演出について。

私は、理想の朝の過ごし方がある。湖畔にポツリと建つ家。窓を開けると、まだ薄く霧がかかり夏なのにひんやりとした風が顔を撫でていく。さて、と。そこでトポトポとコーヒーを淹れてその香りにまどろみ包まれるのだ。いまの家が湖畔ではないが、妄想の中では限りなく湖畔。コーヒーは、私の理想の朝を、演出してくれる。

も一つ挙げるなら、時間の流れについて。

3ヶ月ほど前に、コーヒーを注ぎ入れるサーバーが割れてしまった。そこから、妻がはじめの誕生日にプレゼントしてくれたケメックスのサーバーの上にドリッパーを搭載するというヘンテコな淹れ方をしている。それでもなお、コーヒーをドリップしてる時間は愛おしい。普段はパソコンとスマホと本を取っ替え引っ替えしながら過ごしているからか、その余白の時間が過ぎるのが惜しいほどに素敵に思えるのだ。スマホを見ながらドリップすることもできなくはないが、敢えてそうしないことに意味がある。コーヒーは、余白の時間を与えてくれる存在だ。

いつもより少し余裕があるときには、豆から挽いてみる。そんなときには、「コーヒー」ではなく「珈琲」なんて書きたくなるから不思議だ。

さて。この週末は、「珈琲」で余白のある朝を過ごせるだろうか。なんて考えている。湖畔なら、なお良いのだが。それはまたいつか。